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エピソード10|宿泊の話

  • 5月18日
  • 読了時間: 5分

親が来る

訪ねて来た親に対して、親切や気遣いを示せば、子どもは喜ぶ。

それはごく自然なことだと思う。見返りを前提にした行為だとも考えていない。人として、普通のふるまいだ。

わかる人だけが気づいてくれれば、それでいい。


アイソレーション・ルーム

親が宿泊する際に使っていた部屋は、普段は空室だった。

なぜならそこは、本来「アイソレーション・ルーム(隔離室)」だからだ。学生が感染症に罹った場合、一時的に待避させるための部屋で、冷蔵庫、バス、トイレが備わり、生活が完結できるようになっている。

食事だけは、私が「病人食」と呼んでいるものを運ぶ。医師の許可が下り、回復すれば、学生は元の部屋へ戻る。

コロナやインフルエンザが流行していた時期には頻繁に使用したが、それ以外の期間は、ほとんど使われることがなかった。そのため、便宜的にゲスト用の部屋として流用することができた。


問題があった

しかし、問題があった。

学生寮では、必ずしも衛生意識が徹底されているとは限らない。特に男子学生は、外出から帰寮しても、トイレの後も手を洗わない者が多数いる。それが意味するのは、大腸菌やサルモネラ菌の付着だ。

女子もそうだ。自炊は良いことだ。だが、鶏肉を触った手で水栓を操作すればどうなるか。カンピロバクターによる感染症が起きる可能性は、十分にある。

学生が送信してきた欠席届のうち、75%近くが「腹痛」を理由としていた。

もちろん、中には「これでいいや」的なものもあり、データとしての信憑性には疑いもあった。

ただ、潰せるものがあると気づいた以上、対応は必要だ。

寮内の衛生環境に原因があり、共用部を介して何かが広がっているのではないか、という仮説を立てた。

検証のため、学生が授業に出ている時間を使い、居住区の共用部を中心に111箇所を特定して除菌作業を行った。

これを日常業務として継続した結果、2年目以降、腹痛による欠席は当初から40%程度まで減少した。


宿泊の準備

家族の宿泊時、水道水は、無駄だがタップもシャワーも五分以上放水して当日を迎える。

渇水時には、宿泊自体を断ることも選択のうちだ。

宿泊当日も、夏冬は快適な室温設定、梅雨時は除湿にして、部屋に入った瞬間「違う」ということを演出する。


ホテルでの経験

私は過去にホテルで勤務していた時期があった。その職場では、危機管理の概念が発達していた。

ただ単に人を宿泊させるだけでは済まされない、倫理的な責任がある。

ドアノブ、トイレ、冷蔵庫など、人の手が触れる箇所は必ず次亜塩素酸水で拭き上げる。ベッドと床は噴霧で対応する。

アルコールではなく、なぜそれを使うのか。人体に影響を及ぼさずに済む濃度設定はどうする? 効果の持続は?

安全を数値化できること、そこには知識の集積も問われる。


誰も知らない

ただ、誰も知らない。

構造として見えない負荷がある。

こうした準備にかかる私自身の負荷や、コストという意識が、周囲にはないはずだ。

こういったことは可視化されにくい。


しかし、子どもの安全ともなれば話は別だ。

私が彼らの親であれば、当然管理者に求める。


交渉

その見えないコスト。


こうしたことが、私の報酬に組み込まれるよう、管理会社を通じて交渉したことがある。

だが、管理会社と学校の間には契約があり、お金に関わる問題に、現場の私が直接触れることはできない。当然だ。

ただ、学校は年度予算で動く。次年度からでも、と提案しても、そこは教師といえども組織人。上に対して言えること、言えないこともあるだろう。


私の提案

この報酬が自分の給与に反映されることが目的ではなかった。

そりゃ、収入が増えれば誰しもうれしくないはずはない。私だってそうだ。

私は管理会社と学校に、日本を代表する先端企業や証券取引所など、社会に不可欠な事業やインフラ見学に使われるよう調整してほしいと条件を明示した。


この寮は、とても刺激が少ない場所にある。これが理由で危うく退学しようとした学生もいたほどだ。

エピソード5の香水の彼がそうだ。


毎月の報酬が半年間蓄積されれば、それは20人の学生が、近くの企業や公共施設に訪問する原資程度にはなったはずである。

それらが刺激として、彼らの脳裏に幾分かでも残れば、目的は果たせる。

ひょっとしたら、将来の自分の目標みたいなものも掴めることがあるかもしれない。

私はいい人になりたいのではない。

彼らに与えることができるチャンス、この実現を寮が叶える、これはあってもいいと思う。


判断

結局、本来の契約に含まれていないこれらの危機管理業務を「減らして対応する」という判断が下された。

それが必要だと思った以前の状態に戻せ、ということだ。

是か非かを、ここで断じるつもりはない。

私を引き継ぐ人間が、それを是とするかどうかさえわからない。私の価値観を押し付けることにもなる。


それでも

ただ、その後も私は退職する前日まで、無報酬のまま除菌作業や宿泊準備を続けた。

ここには、管理会社も学校も関係ない。

私の自由時間を使って、寮の整備をしているだけである。

私は、悪いことをしているのではないという自分の感覚に従って、できることをやった。

よくわからないが、そうしないと自分が自分でなくなってしまう、何かしらそっちの方が怖いものに思えた。


問い

ここで、問いを置いておきたい。

「良い」と分かっていることを、「割愛する」と判断した別の立場への援護。

これが私には欠けていて、独りよがりの結論となるのを避けたいという気持ちがある。

正しい答えが一つだけ、という問いではないはずだ。

私は、この判断を今でも整理しきれていない。

だからこそ、結論ではなく、一つの問いとしてここに置いておく。

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