8|手放す責任
- 7月4日
- 読了時間: 7分
手放す責任
退職、そして起業へ
2000年3月、私はどうしても自分の意志に従いたくて、この会社を退職した。
長男は3歳前だったが、家内は自分がピアノで頑張ると言ってくれた。
その頃の私は前に進むことだけを考えた。
あの上司は、「確認だが、今ならまだ退職届は握り潰せる。このままだと、じきに後戻りはできなくなるよ?覚悟したんだね?」と電話してきた。
先の上司はすでに定年退職していたが、連絡をとって事の次第を報告、応援するからと言ってくれた。
東日本担当のヤツからも連絡があって、「名古屋はどうするんだ!」と電話の向こうで喚いていた。
でも、小倉トースト、大好きだろう?お前。
意外だったのは、元ホノルル支社長(財務部の部門長)。
事業部が違うせいで少々疎遠になっていたが、残念だ、とわざわざ電話で慰労してくれた。
起業
6月、縁があった社労士の紹介で電力関係のコンサル業務で起業した。
少ない退職金をほぼ全額、投入した。
そちらに詳しい従業員も高齢者枠で2名雇用して補助金申請、すべての書式を自力で整え、会社を設立した。
守秘義務があるので多くは語れないが、素人なりにひたすら営業に走り回り、電話をかけまくり、資料を作りまくって身体を使い倒した。
壊れかけていた頃の自分に戻った気がしたが、今回はこれを長く続ける気はない。
今だけだ。ここは若い頃と違う。
その甲斐があって、初年度を予想外の好成績で終え、なんと、もともと小さい金額ではあったが初期投資を全額回収、給与も予定通りに支給、少額だが来期に向けての繰越もできた。2人のスタッフのおかげだ。
私自身も、大きなもので1件2千400万円の案件を受注した。
これも2人があれやこれや指導してくれたおかげだ。
素人の限界、正直な告白
でも、この荷が重かった。
起業のアイデアや準備は私かもしれないが、業務は実質この2人が受け持っていた。
トンチンカンなことをいちいち指摘し、軌道修正してくれた。
役所関係も電力関係も2人が担当してくれた。
恥ずかしい話だが、私は顧客から知識不足を指摘されたことが二度や三度ではない。
顧客に対する責任、ここに自分では受けきれない現実が見えた。
やっぱり素人。難しい。
初回の決算が終わって、私は正直な気持ちを2人に打ち明けた。
二人は、相談してくれたことがうれしいと言ってくれた。
でも、じゃあ、何をどうする?というところで遠慮があったのだろう、それ以上話は進まなかった。
会社を手放す決断
起業して15ヶ月目、私はまた決断した。
この会社を2人に譲る。
シンガポールで、私は人の人生を押し潰す側に回ったことがある。
その記憶が、この判断の底にあった。
私も籍は社外取締役として残しておいて、彼らが判断し、十分な利益が出た時だけ報酬を考慮することで相談した。
3歳の子どもがいて、この判断が正しいのか、親として責任ある行動なのか、自分でよくわからなかった。
翌日、返答があった。
「買い取る」
ただし、まとまった金額をすぐに一括では払えないので、分割にしてほしい。
毎月の金額は、私の給与の60%〜70%程度を考えているが、構わないか?
ちゃんと私の生活まで考えてくれていた。
これで、彼らの人生は彼ら自身で決めることができる。
ただ、私は再度職を見つける必要に迫られた。
偶然という名のチャンス
偶然は起こるものだ。
ただし、しっかり目を開き、その偶然に気づき、チャンスとして取り込むための努力は本人次第だ。
最大手の新聞社が、自社の新聞で求人募集していた。
応募資格の「フィールドワークを自分で立案し、実施できること」と言う文字が私をその気にさせた。
私は左派でも右派でも中道でもない。家族と私がメシを食えればそれでいい。
応募した。
1ダースに囲まれた三次面接
この新聞社、面接が面白かったのでちょっと紹介しておきたい。
三次面接である。
指定の会議室に定刻前に参じて呼び出しを待った。
私の順番が来て入室した。
席はすぐにわかったが、だだっ広い会議室で、なんと私をぐるっと取り囲むように、1ダースの人間が座っているではないか!
喋れるものならしゃべってみろという圧迫感がものすごい。
ありきたりの話題から始まって、私の人生で一番心に残っている出来事は何か?と訊かれた。
この面接の問いに、私は自分の話をしなかった。
字面の良いこともないわけではない。
海外赴任、連続予算達成、V字回復、社長表彰。
そんなことはすでに一次、二次面接で話した。
ただ、好きだった会社を退職し、起業して、任せて、手放すまでの15ヶ月間、前面に出るよりも、責任を引き受ける方が難しいと知ったばかりだった。
その重さがまだ残っていて、これ以上、自分のことを語る気になれなかった。
かといって、相手が新聞社だからこれを話したのではない。
ドキュメンタリーで観た森永ヒ素ミルク事件、一組の親子のことを語った。
25、26歳当時に観たものだ。
被害に遭った子供は、長じて小学校に通った。
だが、容姿や運動能力を揶揄われることが日常だった。
軽い時もあれば酷い時もある。
見たことをストレートに表現する。子どもは正直だ。
だからこそ、ある時には残酷になる。
ある日の給食当番の時、この子は他の子供から配膳を拒否された。
理由は察することができる。
その子は、何事も起こらなかったかのように、余裕で躱したかのようにその場を去る。
下校時、家が近づくにつれ、長い時間堪えていた涙が溢れてくる。
母親の姿を捉えた途端、子供は母親の腰にしがみついて泣きじゃくる。
泣くことで息をつげない。でも、泣く。
母親の白いエプロンに食い込んだ小さな手、そこに込められた力がこの子の気持ちを語っている。
何も母親に言わないが、子供に何が起こったか、母親はわかる。
母親は自分を責める。
どうしてあのミルクをこの子に与えてしまったのか?
自分を許せない。絶対許さない。自分が代わりたい。
当時はすでに「ひかり協会」が活動していたが、そういうことには触れなかった。
ただ、あの子どもと母親の姿が頭に焼き付いて離れない、これが私の人生で一番心に残っている出来事です。
で、終わらせた。
話を終えたあと、エアコンの音がやけに響き渡った。
私は、責任を引き受ける側に回るたび、この母親の姿がどこかに残っていたのかもしれない。
人は責任を負うことはできる。
ただ、その責任を全うするには、何をどこまで考えても十分とはならない。
自分の判断で、誰かの人生も、自分の人生も変わる。
では、どうすれば?
私には答えが見つからないから、いつもこの母親のところで思考が止まる。
いつか、この親子にかけられる言葉が見つかるだろうか?
高卒、採用6名の一人
私の選考に、これが及ぼした影響は全くわからないが、後の私の担当者から聞いた話では、応募者90数名のうち、採用6人の1人となった。
合格者の顔合わせで分かったが、他の5人は誰もが知る有名大卒ばかり。
しかも、かなりクセの強そうな人たちばかりだ。
出身校まで紹介することになったので、
「私は高卒です」とだけ紹介した。
反応を楽しむつもりだった。
私の赴任地は四国の県庁所在地。秋山好古と真之兄弟が生まれ育った地に出向となった。
私は前職を降格で終えた。
だが、働く場所があれば、また立ち上がることができる。
後日談――2人のその後
さて、ここでも後日談がある。
起業したあの会社の3年後。
会社を買い取ったその後も2人は頑張ったようで、紹介が紹介を呼び、顧客数がかなり増えたようだ。
そこに、大手(の子会社)から会社ごと(顧客ごとの意。まずはメンテで稼げる。さらに二人は営業面で実績があり、地域に強い)合流しないかと誘いがあった。
この時期、乱立していた同業の淘汰が始まっていた。
誇れるものがない会社は生き残れない。
その状況でこういった声がけがあったということは、素晴らしい仕事をしたのだと思う。
私がもし、あのまま在籍していたらこういう話は転がり込んできただろうか?
大手傘下となれば、案件に困るようなこともなくなる。
福利厚生も格段に良くなり、彼らは高齢者であることの不利、不安から解放される。
そして、何よりもこれまでに獲得した顧客に対して安心感を与えることができる。
私は一も二もなく賛成し、同月中に役職を退任した。
2人とも、私のおかげだと持ち上げてくれた。
そうではないことを、私が一番よく理解している。
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