2-2|手に武器を持つ
- 7月4日
- 読了時間: 7分
更新日:7月5日
手に武器を持つ
11番目の現実
新任地でも、私よりも先に眼鏡学校入学の権利を持つ先輩が2人いた。
売場での序列も3番目だから仕方がないと思ったが、私の入学権利は11番目ということをあの人事部の仲良しから聞いた。
他の地域の売り場もひっくるめて考えると、試験では2番目に合格したのに、会社全体の入学候補者順位では11番まで後退していた。
いつの間に、なんでこんなに順位が下がったんだ?が率直なところ。
どこから来た情報かは伏せて、上司にどうしてですか?と訊いた。
この人ははっきりとモノを言う人で、「学卒優先はどこでもあり得ることで、それをひっくり返す何かに欠けているんじゃないのか?考えろ。で、なんでお前、そんなことを知ってるんだ?」
ヤブヘビだった。
確かに当時のこの会社は急拡大している時期で、高卒ではなく、管理職候補として大卒を軸に求人募集をしていた。
こりゃ、時間がかかるわ。せっかく早くに入学資格を得たのにな、と思った。
でも私は、私を拾い上げてくれたこの会社とこの仕事が好きだった。
この中で、必ず私を雇ってよかったと思ってもらえるようになりたい、そう思っていた。
英語という武器
入学は年に1〜2名しか割り当てられないので、私は学校入学までに、何かできることはあるか、考えてみた。今の自分の位置は気に入るものではなかった。
公的な資格?社内で役に立つものは簿記?それって、高校卒業前に脅されて取ったけれど、経理だよな。
興味が湧かない。
堂々巡りの結果、84年当時、まだ身の回りでそんなに多くはいなかった英語の話し手の必要性に気づいた。
なぜかというと、近くに大きな製薬会社の本社と工場があり、地方都市にしては外国人が多く働いていた。
また、隣市には後に世界的企業となる会社の本社や工場があり、外国人研究者や技術者の出入りが多かったこと、国立大学の医学部と附属病院が小さいながらも先進的で、やはり国内外からの視察が多かったことなどから、彼等外国人の生活必需品としての眼鏡需要があり、これに応えられる体制が整っていなかった。
私は中学生当時からRockが大好きで、家の壁はZeppelinやStonesのポスターだらけだった。
英語を真似て口ずさんでいるうちに、特定のフレーズだけはネイティブ並みの発音に達していた。
ミックなので、褒められるような歌ではないということは想像できた。
百貨店の中でも英語の話し手という存在はなかなか見当たらず、私はこれだ!と決心した。
代替不能の立場。
これは学歴がない私にとっては聖域だ。
そして、私が英語を流暢に話せるようになれば、百貨店内でも引っ張りだことなり、人気者になるはずだ。
女子従業員からも注目を浴びるに違いない。
密かで邪な期待はちょっとしかなかった。
ただ、そういった期待は全て空振りに終わった。
ゴミのカセットテープとの出会い
ラッキーだったことがある。
独学を始めて数ヶ月経っていたと思うが、ゴミの日、段ボール箱に入ったカセットテープが大量に捨ててあった。
ゴミなので最初は全く気にしなかった。普通のまとまったただのゴミだった。
ふとラベルを見ると「Linguaphone」「ENGLISH JOURNAL」の文字が目に飛び込んだ。シリーズものが何種類も入っている。
しかも、紐で括られたテキストまであり、どちらもそこで私を待っていたかのようだった。
使えないものも封を切っていないものもいくつかあったが、これだけの量を揃えるとなると、数十万円は絶対にかかる。いくつかは「TEIJIN」と書いてあったが、あの帝人が英語教材?と思ったことも覚えている。
当時の私は律儀だったので、すぐにゴミの当番さんに断りを入れ、捨ててあるからいいんじゃない?と言われてから持ち帰った。
返却の必要が生じた場合に備えて、連絡先の電話番号も残した。
なぜか?
これは買った人の挫折の碑に思えた。
私なら、マスターした後も手元に置いて繰り返し利用したに違いない。
だから、目にしたくない気持ちは理解できる。
使用した時間は数時間かもしれないし数十時間かもしれない。
金額にすれば数十万円をドブに捨てたことを後悔した時のためのセーフティーネットだ。
要請があれば返却できるようにしたつもりだった。
私のような極貧育ちは、どうしてもここに目が向いてしまう。
私は、人付き合いがあまり得意ではない。
たまに若い人間同士で居酒屋に行くことはあったが、一人の時間が好きで、そこで勉強して自分を鍛えるか、読書するか、ジミーやキースをコピーしている方が性に合っていた。
息抜きには、コミックやフォーサイス、フリーマントルをよく読んだ。
「ストップ!!ひばりくん」はなぜか今でも手元にある。
他の人はそれを肉体の鍛錬に求めることもあるだろう。
当時を思い返すと、1年少々は、私の時間という資源の大部分を投入したと思っている。
ありがとう、ごみカセット。ありがとう、NHK。
(こういう経緯があったのでNHK受信料は必ず払うことにしている)
TOEIC 650――そして海外へ
27歳、挨拶程度はできるように(多分)なってはいたと思うが、きちんとした裏付けがあるものではなかった。
これが非常に気になった。恐る恐るTOEICを受けた。スコアは650。
英検で言えば2級くらいか?
後日談がある。
海外赴任11年を経て、社会人としても経験を積んだ状態の50歳、スコアを更新するつもりで再度TOEICに挑戦した。
きっと余裕で750近くは出ると思った。
結果は500ちょうど。撃沈。
受けなかったことにした。(笑)
その後の就職時の経歴書には650と書いている。嘘ではないからな。
ホノルル派遣――物事の本質は国を超える
85年のそんなある日、休みの日にあの上司から呼び出された。
私の眼鏡学校の入学が遅れていることを気にかけ、英会話を自発的に習得していることを良しとしてくれたんだと思う。
「会社として、6ヶ月程度の技術指導を海外支社に向けて行うことになった。行くか?ホノルルだが?」と訊かれた。
当時は、「Japan As No.1」の時代である。
アメリカではホノルルに限らず、日本的な何かが受け入れられやすい状況にあった。
実は、この上司がすでに上層部に働きかけ、私の派遣は決定していたらしい。
あの人事部の仲良しが教えてくれた。
それでも、「行くか?」と私に尋ねるのはなんでだ?わからん人だ。
でも、ありがとうございます。行くに決まっている。
ただ、この人は私に選ばせたかったんだということが、後になってわかった。
全て整えて、あとは本人にYesと言わせれば良いだけの状態、私が断るはずがないということまで計算していたに違いない。
先が読める人間はこういうこともできる、と感心した。
現地の生活
ホノルルの生活は楽しかった。"fun"の楽しいではなく、知らないことがたくさんあって、自分が少しずつ賢くなっていく実感が楽しかった。
Bank of Hawaii のことはよく覚えている。
生まれて初めて自分のチェック・ブック(小切手)を持った。
これを現金化する時の異常に長い時間にはうんざりしたが、でも、嬉しかった。
世界標準に近づけた気がした。
サインを何度も考案し、ネイティブらしいものを探した。
この時のサインは現在も使っている。
アラモアナ・ショッピングセンターを歩いているティナ・ターナーにも会えた。
『Private Dancer』の直後だ。
片手にプラスティック・バッグをぶら下げた普通のおばちゃんだった。
勤務初日、スタッフ全員の前で、英語で十数秒の挨拶をしたが、スタッフは日本語で何か言ったようだと受け止めたらしい。
技術指導といっても、普段店でやっていることを英語にするわけだが、ほとんどボディ・ランゲージだった。
感覚的なものを伝えるのが主な仕事で、理論的なことは現地社員のオプトメトリストとオプティシャンが受け持った。
ややこしかったのは、彼等両方とも名前がトーマスだったこと。
年長で痩せている方が本来のTom、若くて太っている方は、Tomy boyに強制変更させられていた。
彼ら二人とはウマが合った。食事は海軍基地にあるスペア・リブとジャック・ダニエルズ。太るはずだ。
太いトムとは後日シンガポールで再会する。
物事の本質というものは、国を超えても言葉が変わっても伝わる。
これがわかったことが楽しくて、自分が役割を果たせることが嬉しかった。
私は若かった
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