1|電気が止まる家から
更新日:10月21日
家庭環境
私の家はよく電気が止まった。
単純に、電気代が払えなかったからだ。
冬の夜は暗いし寒い。
ただ、小学生の頃の私には、勉強しないで済む理由になっていた。
私はそういう家庭で育った。
私が3歳の時に母と父は離婚した。
母はこの父と再婚だったので、上の3人と私とでは父親が異なっていた。
子ども全員を母が引き取った。
母は被爆しており、体調の悪い日が多かったが、それでも農協のスーパーにパートで勤務した。
戦前の母の暮らしは、贅沢ではないにしてもお嬢さんだったらしい。
母の口癖は、「もし原爆が落ちていなかったら、もうちょっと違った暮らしができたのにね」。
炊くお米がない時、こう漏らしたことがあった。
子供ながら、今を受け入れている母の境遇を辛く感じた。
ただ、私が大人になってからは、母は受け入れるしか選択がなかったことがわかった。
父のことも付け加えておきたい。
職業軍人の下士官で終戦後に大陸から復員し、戦場での体験を癒すために宗教団体に入信したと聞いた。
その縁で数年後、3人の子連れで、同じく入信していた寡婦の母と再婚したようだ。
酒量が多かったらしい。酒に逃げたのかもしれない。
それが長兄との折り合いに影響を及ぼした。二人が殴り合いを演じ、近所が総出で仲裁に入ったことがあった。
子どもだった私は、近しい者同士が争っているところを初めて見たことが不安で、動けなかった。
その直後、一点を見つめて動かなかった父の後姿を記憶している。
離婚後、私が最初で最後のお泊まりで訪ねた時のことも鮮明に覚えている。
お金がない中、夕食に私の好物を作って待っていてくれた。
子どもの私には、醤油の味付けが濃くて、おいしいものではなかった。
食べないといけないという感覚だけがあった。
喉が渇いたのか、何か別の違和感を感じたのか、夜中に目が覚めた。
なんとなく横を見ると、添い寝した父がじっと私を見ていた。
今の私が振り返ると、父親としての最後の時間をそうして過ごしていたのかもしれない。
不器用で口下手、無骨な人だったと思う。
収入は、母のパートの報酬と被爆者手当、長じた姉が持ち帰る新入社員の給与。市営住宅の四畳半二間に母子五人が暮らし、兄2人はそれぞれバイトをしながら高校に通っていた。
電気が止まることはしょっちゅうだったが、ガスはそうでもなかった。
幸い、プロパンガスはないと困るだろう、という販売店の姿勢のおかげで電気ほど深刻な状況になったことはない。
「近所」というコミュニティが機能していた牧歌的な時代だった。
自分としては中卒で働くことが既定路線だった。
だから、就職した長兄が頑張って働いて高校に行かせてくれたことは、当時より今の方が感謝の念が強い。
高校進学――選択の間違い
当時の私立高校の受験料は約3千円で、中3時の担任は受けておけと再三勧めてくれた。
しかし、仮に私立に受かったとしても入学金、授業料が厳しい。
だから受験しても意味がない。
公立に落ちたら働こうと思った。
子どもながら、そこは考えた。
一つだけ受験し、合格したのは県立の商業高校だった。
高校卒業の時点で働くことが当然だったから、実社会で役立つ知識を得ておこうと考えたのは、自然の成り行きだった。
しかし、これが私に合わなかった。
一言でいえば、まったく「面白くない」。
実務に寄りすぎていたのかもしれない。
私は、もっとワクワクする何かが知りたかった。
商業高校特有のカリキュラムとして、簿記、珠算、電算があった。
電算というのは当時のコンピュータの呼び方で、私の学校では、基礎理論を学ぶという方針でFACOM+COBOLだった。これだけは私には向いていたと思う。
コードをパンチし、間違いは糊付けで修正するという、デジタルとアナログが混在していたことが不思議だった。
電算を除いては赤点だったが、逆に普通科目は上位から落ちたことはほぼなかった。
普通の高校生だったら、その学校にいることの目的を相当意識すると思う。
しかし私は、合わないものはダメと決めてかかっていた。
3年の2学期開始早々、担任から脅された。
卒業最低ラインの商簿記3級と珠算1級を取らないと留年と言われた。
まずい、と思った私は、10月と11月に受験して両方とも合格した。
「お前、できるんじゃないか!ふざけるな!」これが担任の反応。
加えて、希望する就職先への推薦は書けないと言われた。
学校の評判に関わるんだそうだ。
身から出た錆だ。
高校時代の迷走
では、勉強しないで何をしていたかというと、「麻雀」。
1000点50円で賭けていた。
阿佐田哲也さんの影響を受けたと思う。
高校生が真似したがる大人の一人だった。
ただ、私はゲームとして好きだった。
運に左右されることはある。
だが、昭和の時代に、確率、心理、推理、こういったことが詰まっているゲームはそうそうなかった。
だから、学校の悪い奴らと一緒に朝から麻雀。
学校に行っても、どうせ毎日算盤と貸し方、借り方だ。
麻雀は一局ごとに世界が変わる。
中古のダックスやモンキーで友人の家に集まり、ショートホープにトリス。
当時の不良の定番スタイルだった。
点数を正確に計算できるのは私だけだったから、そっちの筋の先輩からもよく声がかかった。
参加しないで、直立不動で点数を数えるだけの役割。必ず最後に手間賃をくれた。
参加しない理由があった。
彼らの麻雀は特殊だ。4人打ちの3人回し、青天井、焼き鳥など、何でもありの異常な高レート。
もはや危険な賭博そのものとしか言いようがなく、私は距離を取った。
怖いこともあった。本人が期待していたよりも低い点数を言おうものなら、胸ぐらを掴まれた。
これを兄貴に知られたら、絶対に殴られたはずだ。
それから女の子。異性に興味を持った。
年上の女性と付き合うことが多く、これもそっちの筋の先輩たちの繋がりで、数人の女性と知り合った。
その中で1人だけだったが、同じような境遇だった人がいて、今のままではダメだと再三忠告してくれた。
彼女は、時間を無駄にし過ぎている、3年後や5年後の自分を考えていない、私は美容師になる目標ができてから毎日の過ごし方が変わった。
お前は中途半端な人間でしかないことに気づいていない、こう話してくれた。
私の目には、荒々しい周囲の中で、一人だけ冷静な人と映った。
ただ、当時の私は生意気盛りで、人の言うことを理解しようとはしなかった。
麻雀やその他の付き合いで、家に帰らないこともしばしばあった。
普通、家族の苦労の上で学校に行かせてもらっていれば、こんなことはしない。
でも、私はそういう人間だった。
卒業後と就職浪人
高校は卒業した。
家を出て、4畳半の下宿で自活も始めた。
しかし、就職していないので安定した生活ではなかった。
週7日間、毎日10〜12時間をアルバイトに費やし、給与前の2日間は茹でたじゃがいもだけ、これが当たり前の時期だった。
お米は、もちろんない。
ただし、私の生活費がかからなくなったから、母の家は電気が止まることはなくなった。
これだけは役に立った。
その後も就活はした。
ハローワークは当時、職業安定所と呼ばれていた。
私はそこのレギュラーだったが、採用にたどり着くことはなかった。
職安に登録している会社も彼らなりの事情があったようで、私の応募書類は律儀に受け付ける。
求職者の面接の実績が少ないと、職安は企業に対していい顔をしないと聞いた。
しかし、私は高卒時に就職できなかった人間であり、社会経験がある訳でもない。
中小の企業にとっては育てるにもリスクが大きかったはずだ。
そういった事情で応募書類だけは受け付けるが、その先を本気で進めてくれている会社には出会えなかった。
高卒のニート、当時はプータローといった。肩身の狭い存在だった。
たまに繁華街で高校の同級生と顔を合わせることがあった。
彼らはちゃんと就職し、スーツを着てそれなりに社会人となっていた。
洒落た傘も持っていた。
「おう、お前何してんだ?」
本当のことを答えられるわけがない。
悔しいが、やつらが眩しかった。
本屋
そんな私でも本屋だけは好きだった。買えなかったが。
歴史や社会思想史のコーナーには妙に惹かれた。
特に紀伊国屋書店。
あの広い売場に所狭しと本が並んでいる。
開店から閉店まで居ても全く退屈しない。
しかも近くにトイレまである。
灰谷健次郎さんの「兎の眼」は売場で2回完読した。
涙と鼻水が本に落ちないよう注意した。
ジョン・ケネス・ガルブレイスの「不確実性の時代」は分厚すぎて途中で読了を諦めた。
店員さんの目が気になったから。
店内のレコード・コーナーでは、 Fleetwood Mac の「 Rumours」 をガンガン流していた。
良い趣味だ。
「Don’t Stop」
この曲を聞くと、もうこれ以下の生活はない、必要なものはここから抜け出すきっかけだけだ、と何か楽観的な気分になれた。
どういう理屈でそうなるのか、自分でもわかっていなかったが(笑)。
就職――転機
高校卒業後、そういう状態で約3年間過ごし、私は21歳になった。
ここまでで、優に20社は落ちていたはずだ。合否の連絡さえ来ない会社も結構あって、世の中から見捨てられた気分だった。
バイト先の新聞の求人欄で、たまたま百貨店内にある眼鏡店の募集を見つけた。
メガネに興味があった訳でも将来性が気に入った訳でもない。
ただ、生活の安定が欲しかった。
心の中では、どうせまたダメだろうと思っていたが、でも、この時は過去とは何かが違った。
古本屋で買って読んだ雑誌の文中に、ローマ帝国時代の哲学者の言葉として「困難だからできないんじゃない。やろうとしないから困難なんだ」というようなことが書いてあった。
セネカの意訳とわかったのは何年も後だが、その言葉に刺激された。
私はやってみよう…と思った。
過去一番の丁寧さで履歴書と自己PRを書き、面接のシミュレーションもした。
当時はそういった面接対策という概念がなかったように思う。
と言うか、私が知らなかった。
髪を短めに切り、なけなしのお金をはたいて一番安いスーツと靴を買った。
鏡に映った自分を眺めて、ちょっとだけ自信が持てた。
印象は大切だ、と出費の言い訳をこじつけた。
面接当日は、節約のため交通機関ではなく、片道2時間歩いて試験会場まで往復した。
当日は、昼食にハンバーグ弁当が用意されていた。
まともな食事は久しぶりだったので、これだけでも歩いて来た甲斐があった。
面接担当はのちに私の上司となる人だった。
筆記試験の結果よりも、面接の問答が印象的だったので採用した、と後日聞いた。
多分、私は必死だったんだろう。
ところが、連絡先を長兄の家の電話にしていたものだから、せっかくの内定通知を家族が電話で受けたにもかかわらず、私に伝え忘れた。私は私で日が経っていたので、またダメだったと諦めていた。
しかし、その上司はわざわざアルバイト先に訪ねて来てくれた。
諾否の返答がないので不思議に思ったそうだ。
働く意志があるかどうか確認したかったと話した。
事務的にボツにすることもできたはずだ。
でも、来てくれた。
私は涙が出た。感謝した。
そのかわり、一生懸命働こうと決めた。
1979年5月10日、木曜日のことだ。私はこの日を生涯忘れない。
社会人として
眼鏡店の業務は私に合っていた。
百貨店のテナントで中小企業ではあったが、業界では大手、私が一番気に入ったのは、福利厚生が整っていたことだ。
仕事内容の理屈っぽいところも合っていた。
会社の方針では、眼鏡は医療用具の延長線上という位置付けで、雑貨として扱っていなかった。
誇りと責任が好ましく思えた。
私は「仕事」が楽しかった。
滞っていた国民年金や国民健康保険の支払いもすべてクリアできた。
働けること、それが自分の生活を良くしていることが、実感できた。
何よりも、真っ当な人間になっている、これがよかった。
だから、光学や実用のことも踏み込んだ学習を行えたと思う。
それが顧客にも伝わって年齢の割には固定客が多く付いた。
社内試験――挫折
そんなある日、上司から、眼鏡学校に入るつもりがあるかどうか、打診された。
社内試験に合格し、5年間の拘束を承諾する必要はあったが、合格さえすれば社費で2年の通学と1年のインターンが認められるとのことだ。
ただし、最終的な入学資格は会社が与えるので、そこは弁えるようにとも言われた。
資格試験まで6ヶ月しかなかったが、私は張り切った。お金がないので、会社から借りた本を読み、実技では社内のテクニカルインストラクターを質問攻めにした。
会社の電話を使って。
結果、本当にギリギリだったようだが、試験は一発で合格した。
ヤマが当たったとしか思えない。
入社2年程度の人間が、内容を理解したうえで答えられるようなものではないことは明白だった。
丸暗記したから答案を書けた訳で、内容を説明しろと言われたら、アウト。
でも、合格はした。
人事部の仲良しから聞いた話では、受験者11名中、合格は2名だった。
しかし、現実は甘くはなかった。
私と同期入社で4歳年上(大卒+転職)、一緒に試験を受けた六大学卒の社員との比較となり、その年の入学は彼に決定された。
漏れ聞いたところによると、会社は今後の戦力比較、人材育成という点を考慮したところ、彼が適任と判断したようだった。
私は、他人と比較されて落とされた。
やはり、どこか劣っているんだと思えた。
落ち込んだ。
「落日燃ゆ」――視点の転換
別の本が私を前向きにしてくれた。
広田弘毅のストーリーだった。
これは買った。
給料が入るようになったので、単行本なら毎月一冊だけ、文庫本なら3冊まで自分に贅沢を赦した。
だから、どの本を買うかは非常に慎重だった。そして、買った本は何度も読み返した。
で、広田弘毅の話。
何に感動したかは覚えていない(笑)。
が、彼はA級戦犯として処刑された。
戦争回避に消極的であったとされ、責任を問われたとのことだ。
連合国側で最後まで擁護してくれたのは、外交官勤務があったオランダだけだったらしい。
私は、自分ではどうしようもないことがあることを主人公に重ね、見ている人は見てくれていることをオランダの擁護に重ねた。
同じことを行なっても、相手の立場や眺め方で評価が変わると受け止めた。
しかし、評価は誰かが決めることだが、次に進むか、何をするかは自分が決めることだ。
それ以上のことは、自分にはできない。
この辺りから、私は自分のことを人ごとのように考える癖がついたと思う。
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