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7-2|退職

7月4日
読了時間: 9分

更新日:4 日前

3名同時退職――呆然

忘れない。

98年2月、3名の男子社員から、揃って退職届が提出された。

「???」

本当に理由がわからなかった。

当然、個別に会話を持った。

理由に共通していたのは、私の強権的な運営方針。

自分の意見を押し付ける。

人の考えを聞かない。

善悪の判断が曖昧。

私は慌てた。

まさにそういうことが起こらないよう、言われないよう、神経を砕いてきたつもりだったからだ。

香港で、私は人は正しさだけでは動かないことを学んだつもりだった。

シンガポールでは、違う立場の人間の事情も考えたつもりだった。

それでも、私はまた「人の話を聞かない人間」になってしまった。


一方で、彼らが独立準備をしていた事実を後で知ると、私は自分が責められた理由を、最後まで整理しきれなかった。

健康食品店を3人で共同経営するとわかった。

狭い街なので、情報はどこからともなく入ってくる。

退職後2ヶ月目の4月オープンということなので、退職前から事前準備はしていたのだろう。

ただ、結果として私が総スカンとなったことだけが明白な事実。


では、どうしてあの時、その本気を説明をしなかった?

夢に向かってスタートを切りたい、それでいいじゃないか?

私は止めない。

帰国時から私は売場を理解しようと務め、ドアを開いていたはずだ。

こうなると、理由は後付けにしか聞こえない。


人員の混乱と、常務の怒り

急に人がいなくなると、店舗の運営に支障をきたす。

外販にも出ることができない。

売上低下の恐れも含めて、百貨店側の心象も良くない。

なんといっても、中核の男性社員3名だ。

これは、大いに常務の気に障ったらしい。

人員の手当は、あのチャンピオンが他の売り場と人員貸出の折衝をしてくれた。

先に述べたように、人事権は常務にあるはずなんだが、どの売り場もギリギリの人員で営業している。

売場責任者であれば、人を抜かれることにいい顔はしない。

そこをこの人は避けたようだ。

その中からの手当てである。

私はヘルプで来た彼を大切に扱うべきだったのかもしれない。

しかし、この社員は問題が多かった。

責任感の薄い人間特有の行動、

仕事を最後までやり遂げない。指示待ちの姿勢。計画性がない。報連相を怠る。仕事が雑で最低限。何度も同じミスを繰り返す。

だからお前はここへ送られて来たんだよな?

どうすればいい?売り場が回らない。

3ヶ月目で元の売り場にお引き取りいただいた。

常務とチャンピオン、元売場の店長には、正直なところを口頭で伝えた。

これもまた、大いに常務の気に障った。

人事から、お前、何をしたと、わざわざ確認の電話があった。

あの人事部の仲良しが課長になっていた。

ほかに対処方法がなかったことにしておく、こう言って電話を切られた。

しかし、その間に新入社員を2名採用できたのはとてもラッキーだった。

土地柄、うちのような中小とはいっても、福利厚生が整った業界大手の求人はそうそう多くはない。

さらに、一人は眼鏡学校を出ているので、知識や技術に心配がなかったことも幸いだった。


わかったこと

退職した3人について、あとからいろいろとわかったことがある。

私はこれを、香港で経験した「疎外という武器」に通じるところがあると受け止めた。


この3人は入社時期がほぼ同じで5年間在職していた。

眼鏡学校入学にも推薦される立派な中核社員だ。

売り場はこの3人と責任者を中心にまわる。

釣りという趣味も同じでよく近場の釣り場に同行していたようだ。

奥さん、子ども同士の仲も良かったらしい。

私の前の責任者2名は、かれらのつながりの中に溶け込めないまま転勤した。

私に引き継ぎをした直前の責任者は、何を提案してもいつも3対1で彼らの意に沿わないことは実現できなかったとこぼしていた。


彼らの開業準備は、前年の9月には始まっていたようだ。

半年間の準備期間を組んでいたらしい。

同じ百貨店の卸売業者さんの話からわかった。

そして、3人が同じ日に退職した理由も後になってわかった。

一人ずつ退職すれば、会社側から引き留められたり、配置を変えられたりして、開業計画が崩れる可能性がある。

だから、3人とも同じ日に辞める。

計画を守るために越えていくべき障害、それが私だったような気がした。

さらに、顧客から聞いて知ったこともあった。

売場の顧客に対して、自分たちが開業する健康食品店を利用してもらうよう、声をかけていたという。

私が実際に目にした訳ではない。あくまでも、懇意にしていた一顧客の話だ。

これは表には出さなかった。

顧客に迷惑がかからないよう、知るべき人間を制限した。

今になって考えると、あの時の3人にとって、私はもうすでに交渉相手ではなかったと思う。

「お前が悪いから、俺たちは辞める」。そういう形にしてしまえば、話は簡単になる。

だが、私には、後から見えてきた事実があまりにも多かった。


家族

暗い日々が続いていた。

男の厄年はこういう形で現れるものか?

私生活以外では、次から次へと予想外のことが起きていた時期だ。

信じることの大切さが自分の中で徐々に輪郭がぼやけていた。


だが、一つだけ、私の人生で大いに励みになる出来事があった。

長男が生まれた。

結婚してこの歳になるまで、そういった兆候がなかったので、ひょっとしたら家内と二人の人生になるかも、と思い始めていたところだった。

出産には立ち会った。

それ以前、仕事の関係で私が浮かない顔をしていたものだから、家内はもっと喜べと怒っていた。

そりゃそうだ。


だが、それだけではない。

誰にも打ち明けたことはないが、私は家内と息子の出産に不安だらけだった。

家内は高齢者出産の範疇に収まる。

そして、私にできることが何もない。

母子共に無事であることを祈るしかなかった。

ただ、私は私なりの覚悟を持って息子の誕生を迎えた。


例えばの話だ。

息子が他の子どもと違うところだらけでも構わない。

これだけは生まれてみなければわからない。

とにかく出て来い。

生まれて来さえすれば、何があっても父さんはお前と一緒に生きていく。

父さんと母さんは、お前を絶対に裏切らない。絶対にだ。

お前と一緒に生きていくことは、条件付きの約束ではない。

世の中には、何があっても変わらないものがある。太陽が東に沈むことはない。

今の父さんが、お前に用意してやることができるたったひとつだけの変わらないものがそれだ。


息子は私の腕の中で、お前の決意なんかどうでもいい、腹が減っている。なんとかしろ、と泣き叫んでいた。

いや、この息子のことだから本気でそう言ったと思っている。


突然の転勤、そして降格

話を戻す。

売り場の体制を整えることを最優先していた頃の9月、突然私に転勤の辞令が降りた。

人事権を持つ常務からは、後になって聞いた。

規模がはるかに大きい売り場で、売上も優に3倍という大規模店舗だった。

何かしら不自然さは残ったが、どこに行こうと、私は自分ができることをやるつもりだったので、承諾した。


98年9月から新しい売り場に勤務したが、20人近い部下にも恵まれ、平穏な日が流れた。

しかし、百貨店、特に私が勤務する百貨店は、経営上、有利子負債が極端に膨らみ、実際に私が退職した半年後に、東京地裁へ民事再生法の適用を申請したほどの低調さだった。

百貨店に強い逆風が吹いていた時期だった。

赴任当初から売上が下降線を辿り、大規模店であるが故に大きな責任が私の肩にかかった。


着任後、もうじき1年が経過しようとしていたころ、常務から電話連絡があった。

明言はしないが(この人はいつもこういう方法を好んだ)人員を、まずはパートを削減してはどうかということを言われた。

これは提案ではない。命令だ。

いや、それは人の生活がかかっている。

他の方法でより以上に固定費を削減するので、いきなりそれは勘弁してほしいと即座に答えた。

が、これがまた気に障ったらしい。

この人の会社員人生では、言い返す人間があまりいなかったんだろうな、きっと。

あるいは、私にはこの人の神経を逆撫する特別な才能があったのかも。

プツっと電話が切れた。


99年9月、恒例の人事異動があった。

私は降格した。

予感はあった。

シンガポールから帰国して、3年ちょうど。

勤務場所も現場を離れ、本社勤務となった。

これにはデータベース云々の説明があって、ここで社内のシステムを再構築するので、委員となってやってくれというものだった。

「現場」を取り上げられた。

私は冷めてしまった。

これ以上、この会社でできることはなさそうに思えた。

結局、私は常務の脇を固める助さん格さんには不適格だったということなんだろう。

そんなことはどうでも良かった。そんなもんクソ喰らえだ。


パートさんのこと

結局、パートさんはその後も百貨店の倒産まで勤務を継続した。

もちろん、この人は常務と私のやり取りなどは知らない。

私の退職後、彼女のご子息が念願のラグビー強豪校に受かったと連絡をくれた。

私の会社のせいで、入学金の手当てなどに影響が出ていたら大変なことだったかもしれない。

会社の都合で、人の人生を狂わせてはいけない。

それは、責任の問題だ。


退職――21年分の別れ

退職日を3月末日に設定した。

本社には行かない。

それまでは、データベースの仕事をきちんとやる。

現場感覚の顧客管理というものも、理解してもらいやすく整理した。

震える手で辞表を書き、提出した翌週、チャンピオンが訪ねてきた。


考え直せ。

お前は俺が面倒を見る。

必ず続けて良かったと思えるようなチャンスをやる。

だから今は耐えろ。


ありがたかった。

能力が足りなくて退職するなら、ここまで言ってはくれないだろう。

私を拾って育ててくれ、家族もお世話になったこの会社。

21年分のいろんな思い出があって、いろんな人に出会ったこの会社。

でも、私は自分の力を信じたくて、袂を分った。


私は、人に見られたくなかったので、最後の出勤日は意図的に遅く退社した。

残務整理のフリをして従業員の退出を待ち、ちょっと感傷的なことをやってしまった。

売り場にあるレンズメーター、グラインディング・マシーンや測定器、様々な備品や商品。

彼らに、今までありがとうと声をかけた。

21年間、いつも私の期待に応えてくれ、決して裏切らなかった。

この道具たちも私を育ててくれた。

きっと前売場や、香港、シンガポールの仲間たちにも伝えてもらえると思った。

こういう滑稽なことは、アホな人間しかやらない。


ボブのことをもう一度考えた

最後に、ただ一つ、気になったことがあった。

ボブ…。

君もこんな気持ちだったんだろうか?

あの時、私はどう考えていた?

必要とされる人間?

あの時、私は『必要とされる人間になれ』と思った。

でも今、わかった。

そんなものは関係ない。

私には、この3年間で起こったことを跳ね返す力がなかった。

香港では、理解してくれる人がいた。

シンガポールでは、自分の判断で動けた。

私はここで、何をすればよかったんだろう?

ここでは跳ね返す足場がどこにもなかった。

自分に跳ね返す力がなければ、必要とされることすら許されない。

そういう社会も、ある。



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