7-1|帰国後の違和感
更新日:10月21日
帰国――変わってしまった風景
シンガポールから帰国した私は、リハビリのため、あの1983年10月オープンの店に責任者として戻された。
あの上司の4代後の後釜となったわけである。
しばらく見ないうちに、田舎の百貨店となっていた。
オープンした頃の面影が、華やかさが全くない。
私と家内がデートした場所も、寂れていて物悲しい。
11年という時間は、そういうものか?
ただ、当時の懐かしい顔がたくさんあった。退職していた知り合いも、わざわざ会いに来てくれた。
時間が経過しても変わらないものがある。これは素直に嬉しい。
二重構造の罠
私は、海外で11年間を苦しみながら生きてきた。
業務で生じるある程度の問題は、解決していく能力も身についた。
が、そんなこと、全く役に立たないことが帰国後の3年間で起こった。
私の上司は、常務となった。
まず、役員が現場を直轄するなんてことは絶対にあり得ない。
エリア担当のメンツもなくなる。
いったい、何が目的?
私と常務の間に存在するべき人、この人もボードメンバーだったが、どういう訳か売上に関する責任はこの人、私を含めた人事権、売り場の他の決定権は常務という二重構造の中に放り込まれた。
それが普通に起こり、まず、ここに歪みが生じた。
一体どっちが私が相談できる相手?
ただ、この常務、権謀術数に長けているというか、社内でも評判のマキャベリストだった。
この人の下で潰れていった先輩やブライテストホープの話は、枚挙にいとまが無い。
うっひゃぁっ! これが素直な気持ち。
私はこの人の秘書的な役割も振られた。
西日本に出張すれば、そこでの面倒は全て私が見る。東日本出張にも同じ役割の人間がいて、名古屋はどちらが担当するか、いつも揉めていた。
私と同期で、比較の結果、先に眼鏡学校に入学したあいつだ。
その後、お互いの出張時の居酒屋仲間になった。
私は岐阜県に日本の中心線があることを主張し、やつは糸魚川–静岡構造線と50/60ヘルツの境界線を持ち出して、「名古屋は電気も地面も西日本だ」と理屈をこねた。
結局、じゃんけん一発勝負で常務の名古屋の相手が決まった。
ゴルフ好きなので、これに百貨店の人間を絡めて設定しておけばたいてい上機嫌だった。
ただし、自分の管轄内で起こる不祥事には容赦がなかった。
不祥事と言っても、色々とある。
中には、担当の責任というよりは、不可抗力的なものがあることも私は知っていた。
ご本人の立場を毀損するものがまずいというのがもっぱらの噂だが、それが事実と受け止められていた。
しかし、常務は常務だ。業務で実績があるからこの役職についている。
V字回復と社長表彰
さて、私。
帰国後の1年はあっという間に過ぎた。
社内でも売上下落率ワースト1〜2を行ったり来たりしていた売り場を、アイデアと機転で前年比105%、1997年度売上最優秀課として見事にV字回復させた。
何をやったかというと、やはり構造を変えた。
何年も手をつけていなかった外商帯同の外販を再導入し、私が率先して外を回った。
百貨店の外商は固定客のみで売上を築き、勝負する。
外商登録までは至っていないが、継続的に高額商品を購入する顧客、これがうちのデータベースで拾えた。
これらの上顧客を外商員の開拓先として紹介する代わりに(私も随伴する)、眼鏡購入の見込みがありそうな顧客を紹介してもらう、あるいは積極的に眼鏡販売を推進してもらうという非常に単純な方法で始めた。
外商が紹介側に回る時は、外商員が今売ろうとしている商品の情報を事前に集めた。
例えば、シャガールの「ダフニスとクロエ」。
顧客宅で係員の説明が終わった後、私は資産性や価格の透明性、インテリアへの馴染みを補足した。
場合によっては、保管方法まで踏み込む。
単純なことだが、これが準備できていないことが驚くほど多い。
ただ、私の脳みそではこの辺りまでが限度。
結果、「ダフニスとクロエ」は販売に繋がった。
いつもその場で販売が成立するわけではないが、知識は信頼に繋がる。
後日、販売に繋がったケースは多々ある。
外商員もいろんな人がいて、私よりも若い係長などは、調べ方も含めて手法を真似ていいかと言ってくれた。
外商員を味方につけた結果、月間予算の30%を数点の高額商品だけで構築するなど、新しい市場が突然目の前に現れた気がした。
98年初頭の社内新年会では、年間売上前年比第1位として社長表彰が待っていた。
前年までが悪すぎたのでそんなに不思議な結果ではないが、あの上司の後釜として恥ずかしくない成績だと、自分でも思えた。
ちゃんと見てますかぁ?オレ、きちんとやってますよォ。
壇上での挨拶は注目の的だったが、スタッフの頑張りや周囲の協力がなければ、この表彰にたどり着けなかったと括った。本気でそう言った。
私がどうしようもないプータローの頃からここまで関わってくれた人、すべてに「礼」を伝えた。
チャンピオン
そして、常務はいつもよりも上機嫌で酔っ払っていた。
私は、もう一人の責任者への挨拶を忘れなかった。
この人はコワモテで、高校生の時、ボクシングの近畿チャンピオンになった人でもある。
大学で拳を骨折し、セコンドとトレーナーに徹することにしたようだ。
見ている人間がいないと思って、私の事務室でシャドーをしていたことがあるが、本当にパンチがヒュッと空気を切り裂く。
担当店で部下を殴り、それが表沙汰になって一度は降格した経歴を持つ。
それを持ち直して、末席ではあるが役員会のメンバーとなっていた。
その上司。
ある朝、私は新聞広告の出稿が遅れたことをめぐって電話でやり合ったことがある。
最終的な判断を、今回はどちらがするのか曖昧だったからだが、慣例ではこの人が最終判断を行なっていた。
300万円以上の会社のお金がかかっていたから、私の職掌をはずれる。
「てめえが忘れたんだろうがあ!」
「すぐ来いや!叩き直してやるぁああ!」
ここまで露骨に責任転嫁されると、私も黙っていられなかった。
「おうっ!すぐ行きますわっ!」
返答を待たず、私は電話を切ってこの人がいる大阪支社へ向かった。
歯の1〜2本が失くなるくらいは覚悟した。
そうだ、おでこでパンチを受ければいいんじゃないか?硬いし。
ひょっとしたら、また拳にヒビでも入るかも。
高校時代の麻雀付き合いのおかげもあって、こういう種類の怖さには慣れている。
昼過ぎに到着した。
本当に来るとは思っていなかったらしい。
なんでお前がここに?という顔をされた。
話を蒸し返すと、鼻でフンと笑った。
「俺は約束がある。出かける。話は今度聞いてやる」
正味1分間の会話。
それでおしまい。
私はその足で広告代理店に原稿を持って行き、拝み倒してことなきを得た。
その時の新幹線代を経費で請求した翌月、電話があった。
「お前、あれが経費で落ちると思ってんのか?」
でも、経費として振り込まれた。
その次に会ったのがこの新年会。
でも、この人も笑いながら、お前のところが一番心配だった、よく持ち直したと言ってくれた。
しかし、私はこの後に出てくる問題には、全く気づいていなかった。
…オマケの話
この上司に会うため大阪へ向かう新幹線の中で、私は思い出したことがある。
私は以前も似たような人間と過ごしたことがある。
この上司を見ていると、私はどうしてもそいつを思い出す。
兄貴だ。
私を高校に行かせてくれたあいつ。
兄貴はもともと格闘技が大好きで、14歳の時、すでに体も中学生離れしていた。小学生の私は「ゴング」というプロレスの月刊誌をいつも買いに走らされ、コブラツイストはもちろん、4の字固めやパイルドライバーの練習に使われた。
パイルドライバーはさすがにちょっと危険なので、いつも布団を二重に敷いて衝撃を軽減した。
そういうくだらんところに使う頭脳はあるくせに、くだらん行為を止めることはしない。
ふすまに大穴が空いておふくろから怒鳴られていた。
おふくろや姉貴から聞いたところによると、中3の冬休み、地元の大きな商店街で天津甘栗を売るアルバイトをしていたらしい。学生服のまま。
現代では考えにくいが、昭和40年代初頭はそういう時代だったということだ。
そこを通りかかった学ランの高校生二人にからかわれ、のした。
プロレス技ではなく、パンチで。
そこで殴る方に目覚めたと言っていた。
高校生二人との後始末は、甘栗のテキ屋さんが間に入って穏便に――というか、恐喝的穏便に――済ませてくれたようだ。
そのテキ屋さんの知り合いを通じて、兄貴は高校入学と同時にボクシングジムへ入った。
月にいくら払える?と訊かれて、正直に「300円。」と答えたらしい。
アホだ。
子どもの小遣いが通用する世界じゃないはずだ。
だが、ジムは入門を許した。こうなるとどっこいどっこいだ。
変わった人たちだけで集まって、世間に迷惑をかけないよう自分達の世界に棲んでくれればいい。
私は小学生だったが、あまりのアホくささに笑ってしまった。
ただし、グローブなしで、ましてリング以外で拳を振り回すことを厳しく戒められた。あいつなりに破門は怖かったらしい。
それに、喧嘩などしなくても、リングには相応に強い相手がゴロゴロいたから退屈もしなかったと言っていた。
私は「スウェイバック」だの「ウィービング」だの、まったく興味のわかないことに付き合わされた。
川沿いを上流へ向かって走るトレーニングにも何度も同行し、終わる頃には足腰が辛くて立てなかった。
そもそもこいつは、高校生と小学生の違いを理解していない。
兄貴にはボクシングがよほど合っていたようで、高校3年生になる頃にはアマチュアの中四国3位にランクされた。
表彰状が丸めて押し入れに放り込まれていたことを覚えている。
この栄えある表彰状は、兄貴の手に渡ったことがそもそもの不運で、決勝に進めなかった時の判定が不満で押し入れを割り当てられた。
なんで捨てなかったのか訊いておけば良かったと思っている。
一方、この上司は高校時代の近畿チャンピオンだ。競技人口を考えても、実力は相当なものだったのだろう。
あの頃の兄貴を知っている私には、その底にある凶暴さのようなものが、二人の間でなんとなく共通しているように思えた。
違うのは、兄貴にはジムがあった。
拳を使っていい場所と、使ってはいけない場所を決められ、その枠の中に収まった。上司は、その場所から一度、はみ出してしまった。
ただ、凶暴さというものは、ボクシングの世界だけの話ではない。
組織にも「役職」という力が存在する。
そんなことを思いながら新幹線に乗っていた。
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