6-2|握手のない別れ
更新日:12 時間前
握手のない別れ
93年10月。
さて、ここから。
会社が生き延びなければスタッフの生活は保証できない。
私は要旨をA4用紙2枚にまとめ、1部を彼、もう1部を私用に準備した。
これに沿って説明する。さらに、レコーダーを用意した。
私の事務室を出入り禁止にし、違う自分を演じ、ボブに事情を説明、提案した。
彼は猛反発した。
本当に、体を震わせながら話す人間を見たのは、私の人生ではこれが最初で最後だ。
彼の受け止め方は、降格に対する屈辱、今まで下で働いていた人間の指揮下に入ることへの拒絶、給与が下がることで家族に対する面目の失墜。
要約するとこういうことだった。
最終的に、彼は理不尽な扱いを受けたということで、レイバーデパートメント(当時)に訴えると主張した。
私は宥めた。
これは今後を見据えた「会社のサバイバル・プラン」で、君の勤務態度や能力の案件ではない。
むしろ、君が今後の定年後を見据えた働き方ができるよう、便宜を図るつもりでいる。
君が望めばダブルワークも許可する。
定時退社、休日確保にも便宜を図るし、業務量も減る。
それに、言いにくいが、君はOOB対策、CLP対策に具体的な力となってくれるか?
合格しなければ、全員道連れになってしまう。
落ち着いて考えてくれないか。
彼は席を立って出て行った。
渡したA4の2枚は、丸めて売り場の隅に投げ捨てられていた。
私は自分がしたことに自信が持てていなかったことに気づいた。
就業時間が過ぎても、椅子から立ち上がる気になれなかった。
年月が経過した今でも言葉にするのは難しい。
が、その時、やろうとしていたことは必要なことだとも理解していた。
ウィリアムとヴィンセント、それぞれの道
一つひとつ、状況を整理し、対応策を練った。
まずはウィリアムに資格申請をさせる必要があった。
マネージャー昇格の話は、ボブとの一件が完了してからだ。
費用は会社持ち、ライセンス取得後5年間の拘束はするが、取得した資格、それは君の個人資産となる、と話した。
通常は3年の拘束が一般的だ。
私は、そこを認めた上で、会社としての費用対効果、有資格者になることと5年間で得られる有資格者としてのマネージメント経験、個人と会社のバランスを考えて5年と説明した。
やる気が起こったようだ。
考えてみれば、ウィリアムがこれほどの笑顔を見せたことは初めてのような気がした。
誰にとってもモチベーションは大切だ。
これはこれでいい。
次にヴィンセント。
常にウィリアムとチームとして活動してきた。
片方が好条件で、彼には何もないというのでは、バランスが取れない。
幸い、彼の奥さんはマレーシアで生まれた人で、日本に親近感を持ってくれていた。
KLで育つうち、マハティールさんの『Look East』政策の影響があったのかもしれない。
彼も日本の文化と深い関わりを築ける環境に身を置きたかったようだ。
私は、本社の許可を得ずに、彼を日本語学校に通わせることにした。
相談すれば、どうせあれやこれや言われ、時間がかかるに決まっている。
今は組織の安定が最優先という課題がある。
ウィリアムの件を説明したあと、2年間ほど、日本語学校に通わないかと持ちかけた。
君が日本語を話せるようになれば、この売り場の日本人客にもメリットが大きい。
彼はこれを非常に喜んだ。
あとで本社と揉めても保護されるよう、私の支社長名義で合意書を作って持たせた。
これでコース修了までは大丈夫だ。
こうなると私は確信犯以外の何者でもないが、構わなかった。
案の定、後日出張で帰国した時、海外事業部はもちろん、専務と財務部からも呼び付けられ、コンセンサスを軽んじたことの大叱責を食らった。
財務の部門長は、あの元ホノルル支社長だ。
「こういうことになるの、わかっててやったんだよね?」
最後は苦笑いで逃がしてくれた。
――ああ、この人も同じことをしてきたんだ
私はすぐにわかった。
ボブの退場
ボブは、あの日立ち去ったまま出社しなかった。
私が彼の立場に身を置いたらどうするだろう?
こればかり考えていた。
答えはわかっている。
私は必要とされる人間となるよう努力したはずだ。
外せない人間となれるよう、何かを示したはずだ。
ここが違う。その時は、そう考えた。
でも、私が彼と同年代になってもそう言い切れるか?
今はその話はしない。
あの日から1週間目、ボブからウィリアムを経由して連絡があった。
夕刻、私たちはホテルのティー・ラウンジで会った。
彼は条件を出してきた。
退職までの有給休暇の残日数、会社都合による雇用終了の補償として、基本給1ヶ月分を一時金として支払うこと、賞与の日割精算、退職金の金額を調べ、通知を行うこと。
それから、以後一切連絡を取らないこと。
全て呑んだ。
同時に、ボブが条件を語り始めた段階で、彼自身も自分の限界を理解していたように思えた。
シンガポールの制度では、一時金や賞与、退職金などは本来必要ない。
そこは彼もわかっている。
だから、これは「Deal」だ。
が、彼と彼の家族の生活を維持し、新しい職場が見つかるまでは会社の責任だと思った。
海外事業部からも一時金を基本給の2ヶ月分までなら可という許可も事前に得た。
2ヶ月分の一時金兼退職金、プラス賞与の日割りを用意すると伝えた。
私が提示した条件もある。
退職金等お金のこと全てと、雇用契約に関連して、会社に対して有する一切の請求権を法律上許される範囲で放棄することの合意文書、これを会計士経由で送ることを伝えた。
彼が別れ際に言った。
「お前とは握手して別れない。お前は私の人生に突然現れた疫病神だ。2度と顔を見たくない。私のシンガポールから出て行ってくれ。」
私はソファに沈み込んだ。もっとタフな自分を想像していた。
最後に、私が握手のために差し出した右手は、空気を掴んだだけだ。
ボブが座っていた場所から視線を逸らして外を見やると、ティー・ラウンジの大きなウィンドーいっぱいに夕焼けが映っていた。
いつもの黄昏の景色は変わらない。
そして、ボブが去ったあと、私は通常の勤務に戻った。
スタッフは全員、この数週間で何が起こったか知っていた。
スタッフを集めてことの始終を話すようなことはしない。必要がない。
ボブとのつながりが強かったスタッフは、私に対してよそよそしいスタッフに変わった。
ウィリアムとヴィンセントがその間隙を埋めようとしてくれたのは、正直、助かった。
トミー・ボーイ、シンガポールへ
支社の将来に向けて、今、打てる手は打ったつもりだ。
まだ問題があって、前述したように私のライセンスでは数年後に始まるOOB規制の要件を満たさない。
ホノルルのオプティシャン、太いトーマスをここに当てはめる。
体は重いが独身だから身軽だ。
なんと言っても35歳だ。
世界を楽しめ。
トミー・ボーイのライセンスは間違いなく許可が降りることを、会計士事務所経由で確認を取った。
さすがに人事のことは海外事業部を通さないとまずいので、提案書を作成して送った。
出張時に怒られたばかりだし。
これで、ウィリアムがライセンスを取得するまでの設計が完了した。
トミー・ボーイのシンガポール着任に伴って、私のシンガポール勤務は終了する。
引き継ぎ開始当日、彼を迎えに空港に行った。
相変わらず太っている。
飛行機で追加料金を取られなかったか?と聞いたら、ちゃんと飛んだから問題ないはずだと言っていた。
トミー・ボーイは気のいい人間だ。
陽気な太っちょのアメリカン、これがピッタリ。
支社のスタッフとも折り合いがつくに決まっている。
あとを頼む。
エピローグ
…シンガポールを離れてから随分と時間が経った。
疫病神という言葉は、今でも時々、どこかから戻ってくる。
私は組織を守るために、個人の生活に介入した。
問題が発生した後、何が起こるかもわかっていた。
一人の人間の生活を犠牲にするしかなかった。
強い良心の呵責があった。
私が若かったころ、自分が苦しんだあの感覚。
それを今度は私が、人に押し付ける。
結局私は、自分の良心を圧し潰したように感じた。
他人から、良心を殺したんだねと言われれば、反論はしないと思う。
あの時の判断が正しかったかどうかは、今でも答えは出ていない。
ただ、もう一度あの日に戻っても、私は同じことをすると思う。
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