14|「寮」の洗礼
- 7月4日
- 読了時間: 8分
更新日:7月4日
「寮」の洗礼
寮の話
新しい職場には、2016年5月に着任した。
私の雇用主は、業界でも大手に属する。
非常に大きな企業の一部門で、先進的な姿勢を持っていることで評判の会社だった。
ここからは、寮の話だ。
最初の冬 ―― 見えていたのに、届かなかった
勤務した最初の寮は、学生寮ではなく、2016年当時の呼称で「技能実習生」と呼ばれる人たちが暮らす場所だった。社会人寮だ。
ここに私が配属された理由は、海外勤務経験者で東南アジアの生活に馴染みがあること、海外・国内を通じて若年層との接点の多さが際立っていること、言葉の問題を努力と工夫で凌げることを観てくれたのだと思っている。
私が一緒に暮らす人たちは、ベトナムから日本にやってきた。
19歳〜25歳、男性10名、女性30名のグループで、都会育ちの人は皆無だった。
私はベトナム語が話せない。
彼らも日本語学習を奨励され、取り組んではいたが、訪日したばかりだ。
コミュニケーションの困難さを乗り越えることが私にとって重要なファクターだった。
私の古いPCにベトナム語のランゲージキットを導入し、Google翻訳(当時はこれしかなかった)が使えるようにした。
これで、PC上で筆談をする。
が、誤訳も多いから、前に進むには時間がかかる。
常時ネットに繋いであるので、彼らも本国、国内の友人との連絡や、情報収集などに自由に使用する許可を会社側からも得た。
拙いが、私も日本語(職場で必要とされる言葉に限った)講座を始め、数人ではあるがレギュラーもできた。
特に発音。
業務中に出てくるであろう日本語をセクションごとに音声としてまとめた。
「チルド」、「スライサー」、「パッキンを取ってきて」、「右から2番目」。
マニュアルに記載されていることの、「なぜ必要なのか?」の説明。
パートさんとの会話に齟齬をきたさないよう、この段階から注意を払った。
そして、日常のサバイバル用の言葉。
改訂版では、実際の職場の動線と写真も入れ、さらに理解しやすく整え、これをまとめていつでも反復して聞けるよう、ヘッドセットもつけた。
熱心な子には、自分のスマホでも聞けるようHTMLでページも作成し、後にはこれに一本化した。
そうした日が続き、翌年の旧正月「テト」が近づく頃、寮の廊下に小さな変化が出始めた。
特定の実習生のグループだが、帰ってくる時間が少しずつ遅くなっていた。
最初のうちは理由があった。友人と食事をした、買い物に行った、電車を乗り間違えた。
確認のしようがない話ばかりだったが、説明しようとする意志はあった。
この時期はテト前なのであり得る。
みんな、心が華やいでいた。
それがやがて、何も言わずに深夜に戻ってくるという形に変わっていった。
寮規則としての門限はある。
が、社会人のそれは午前0時と遅い時間に設定されていた。
これに遅れるようになった。
私は会社と監理団体、勤務先に報告した。
返ってきた反応は、おおむね「何か起きたわけではないから」というものだった。
事件は起きていない。
ルール違反と言い切るには微妙な線だ。
それは正しい判断だし、そんなことは言われなくてもわかっている。
ただ私には、何かが静かに動き始めているという感触があった。
その感触を言葉に変える手段を、当時の私は持っていなかった。
私に見えていたものはあった。
これも筆談から少しずつわかった。
ベトナムからきた実習生は、社会問題にもなったように経済的な負荷が大きかった。
まず、本国での借金。
ベトナム現地の送出機関やブローカーに対して、日本語教育費や手数料の名目で不当に高い費用を支払わされていた。
手取り額と仕送りについても、当時の月々の手取り給与は11万〜13万円程度(当時の最低賃金水準)が一般的だった。
家賃や光熱費は一人月額1万円程度で固定されていたので、この点は上場企業だけのことはあると思う。
それでも彼らは食費を極限まで切り詰め、毎月9万〜10万円近くを母国の借金返済と家族への仕送りに回していたようだ。
多額の借金があるため、期待していたことと違っていても、帰国すれば破産するという恐怖から、誰にも相談できず精神的に孤立していた点がある。
借金は家族に及び、報酬の少なさと持てる時間への焦燥は消えず、出口は塞がれていた。
その重さを抱えたまま、日本で暮らしていた。
次に、住居の問題。
寝具やTV、エアコンなどは各部屋に揃っており、洗濯機や乾燥機は共有スペースに設置されていた。基本的な生活には不便がないよう対策は講じられていた。
ただし、6畳程度の広さの部屋に2名ずつ住む。
プライベートがないことや、ルームメイトとの折り合いの点で問題があった。
会社は人数分の自転車を用意してくれていた。
私は後に40台の自転車を引き連れて、4km先の激安スーパー(不思議とベトナムの人が好みそうな品揃えとなっていた。顧客層として成立していたんだろう)までの道順を伝えた。
職場はコンプライアンスが行き届いていたが、残業は制限され、シフトも増やせない。
転職もできない。
上場の大手スーパーというコンプライアンスが徹底された環境であっても、日々の生活や現場での「摩擦」は確実に存在した。
労働環境や人権侵害といった極端な問題がないからこそ、「文化・生活習慣の違い」「言葉の壁」「職場内での役割・認識のギャップ」に起因する、より日常的でリアルな摩擦が表面化しやすくなったと思う。
ホワイトな環境が、稼ぎたい者にとって壁になる。
逆説だが、私は頭では理解できていた。
勤務が続いても、焦燥感は消えない。
それどころか、帰国が近づくほどに大きくなっていく。
FacebookやSNSを通じて、外の世界の情報が流れ込んでいることも感じていた。
「もっと稼げる仕事がある。」
そんな話が、彼らの間で交わされていることもわかっていた。
私が用意したPCは、時としてFacebookの履歴だらけだったこともある。
勉強のための「窓」が、彼らにとっては外界の「窓」に替わっていた。
ただ、私が危険だと感じたのは、門限破りやFacebookではない。
借金、焦燥、言葉の壁、閉じた生活環境。
それらは私が変えられることではない。
問題は、その全てが存在する場所で、人間関係、目的に対する手段が先に変わり始めていたことだった。
しかし、そこから先は彼らだけの世界だった。
私には見せてくれない領域があった。
彼らはそれを「ボドイ」と呼んでいた。辞書には載っていない。
大体、アウトロー的な意味合いで使用していた。
彼らの間にある不文律とでも呼ぶべき境界線を、私は越えられなかった。
越え方を持っていなかったと言うほうが正確だと思う。
では、何ができたか。
これが、今も私の中で閉じていない問いだ。
いずれ何かの形で事件は起きただろうと思っている。
私がいてもいなくても。
構造がそうなっていたからだ。
私が何をやっても、その構造には届かなかった。
というか、届く手段を持っていなかった。
結局、2年間の私の在任中に大きな事件は起きなかった。
ひょっとしたら、私が知らされていないだけで、勤務先では何かがあったような気配はある。
数人の実習生が別々に、人事担当と管理団体の担当を交えて、長い話し合いをしたことを知っている。
それとは別に、私が怪しいと思ったことには介入した。
実習生は、外部の男性の車で寮の前まで送ってもらうことがあった。
終電に間に合わないことが多々あったからだ。
私は勤務時間外でも、管理室で待った。
送ってくる人間は、まず男性で、独特の配色の服装、首には金色の太いチェーンが巻かれ、車自体もヤンチャだった。
大きな音で音楽をかけながら戻ってくる。
そのまま寮の前で大声で話すので、近所の手前もあり、放っておけない。
注意をするが、不遜な態度と言葉で切り返されることが常だった。
実習生たちは、その状況を複雑な表情で眺めていた。
そして、そういうことが起こった後、私は本国の家族のことを思い出させた。
これしか思いつかなかった。
その夜だけでも、自分達が帰るべき本来の場所を思い出してくれればと願った。
それは生活指導というより、彼らを現在地に引き留めるための言葉だ。
私にできたのは、制度を変えることでも、借金を減らすことでも、勤務先の条件を変えることでもなかった。
それが役立ったのか、それとも私の知らないところですでに何かが動き始めていたのかはわからない。
はっきりとわからないまま、その寮を去った。
私は都内の大学に新設された国際寮に転勤となった。
この経験が私に残したのは、反省でも教訓でもなく、無力感だった。
そして、奇妙な癖だった。
人の表情、帰る時間、言葉の減り方、誰とつながり始めたのか。
そういう小さな変化や人間関係に、目が向くようになった。
観察しようと決めたわけではない。
目の前の誰かが変わっていくのを、何もできないまま眺める自分でいたくなかっただけなのだと思う。
それ以前の私は、自分が自分でなくなることを恐れていたという自覚があった。
しかし、この寮で見たのは、目の前の誰かが少しずつ「その人」でなくなっていく兆候だった。
人は突然変わるのではない。
壊れる前には、必ず何かが始まっている。
当時の私は、その感覚だけを持っていた。
その感覚が何を意味していたのか、言葉として整理できるようになるまでには、もう少し時間が必要だった。
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