エピソード09|よい子のこと
- 5月18日
- 読了時間: 6分
よい子
Wは香港から来た女子学生だ。
IB生では珍しくN2を持っている。
読み書きはともかく、しっかりとした日本語を話すので、私ともカフェテリアのスタッフとも距離が近い。
人懐こくて、明るい。
ギターを弾き、アニソンを歌うことが趣味で、誰とでも、等距離で話ができる子だ。
でも、それが子どもなりに苦労して身につけた鎧だとすれば?
点呼
学生寮では、女子学生と男子学生は当然フロアが分かれる。
女子フロアに進むことができる関係者で、男性は私だけだ。
教職員、父親の訪問時でさえ、遠慮してもらう。
5月の連休の初日、ルームメイト3名はすでに旅行や帰省でいない。
私は夜の点呼をして回るが、そのフロアで残っているのは、このWという子と、もう一人、遠いユニットにいる2名だけだった。
ドア越しに名前を呼ぶ。
返答があればOK、そうでなければ事態を確認する義務がある。
その場合、私は女子の部屋にマスターキーで入室する資格を学校から得ている。
ICカードなので、私の入室がログで記録される。
私は、入室する時は念には念を入れて録音か録画をするが、録画だと見られたくないものを考慮しなければならない。
女の子だったら、尚更だ。
通常は録音しながら入室する。
さて、そのW
一度目の点呼に応答がない。
二度目はもっと大きく名を呼び、ドアも少し強めに叩く。
応答がない。
こうなると非常事態を想定しながら対応を進める。
が、やや遅れて返答があった。
しかし、様子がいつもとまるきり違って、泣き声だった。
ドアを開けるよう促す。命令口調ではない。
私は内心、ちょっと驚いた。
Wが?と思うからだ。
いつも明るい、声も元気、何事もなく学校生活に馴染んでいる。
と、私の目には映っていた。
出てきたWの目は真っ赤。
鼻水も垂れていたが、本人は気づいていない。
しかも、肩で息をしている。
相当激しく泣いた後のようだった。
何があった?
無言。
これが何分も続く。
夜の対話
ラウンジの椅子に掛けさせ、飲み物を用意してじっと待つうち、私が時間をかけて相手をしていることを気遣ったんだと思う。
訥々と話し始めた。
英語と日本語が交ざった会話が終わるまでは多分、優に2時間はかかった。
こういうことらしい。
自分は普通の子供で、香港で普通の中学と普通の高校に通い、留学などは、特に考えていなかった。IBDPというものも母親から聞かされるまではなんのことかも知らないでいた。
(母親の影響を強く受けているんだ)
でも、小さい頃から音楽が大好きで、できればそういった音楽関係の学校に行って、将来も音楽の仕事に進めたら楽しいだろうなとずっと思ってきた。
難しいけれど、香港大学(HKU)の音楽学部に行ければいいなと考えた。
だから、HKU用に英語も一生懸命勉強したし、それが今のIBDPにも繋がっている。
(自分で調べられることは調べたんだ。主体的であろうと、努力もしたんだ)
ただ、お母さんからは、自分と同じ道(会計士らしい)に進んでもらいたいと繰り返し聞かされているので、いまさら嫌とも言えない。
しかも、もうIBに進んでしまった。
後戻りはできないことがわかっているし、過去に何度かお母さんに音楽をしたいと言っては嗜められた。
さっきもお母さんと電話で話をしていた。
授業が難しいと言ったら、いつもよりちょっと厳しく怒られた。
私は、IBに向いていないかもしれない。
これが問題だとわかった。
この子には、選択権がない。
でも、進路指導としては私の専門外の問題でもあり、質問をしようにも、的外れなことを訊いてしまいそうで、言葉に詰まった。
何も言えないでいると、逆に気を遣わせてしまった。
「私は大丈夫です」
そんなわけないだろう。
私は、唐突に自分の都合を押し付けた。
「明日の朝、もう一度話ができるか?私は、君のことをきちんと考えてみる。」
翌朝
翌朝、私は約束の時間に、彼女の朝食を持ってラウンジに赴いた。
しかし、彼女が何を求めているのか、私が彼女に何ができるのか、さっぱりわからないまま朝になってしまった。
「一人でHKUや音楽学院のことを調べて、英語もIBも必死に食らいついてきたんだな。
本当によく頑張った。
IBに向いていないと感じるのは、君がダメだからじゃない。
大好きな音楽を抑え込んで、お母さんの望む道のために心を使おうとしているからだ。
君はいろんなところでエネルギーが必要なんだ。それで今、足りなくなっているだけだ。
『IBがダメ』と思う必要はないよ。
でも、自分の夢を完全に消す必要もないんだ。音楽だっていろいろあるじゃないか。君はいつもアニソンを歌っているし。
IBのスコアも英語も、音楽の道に進むための大きな切符になる。
君は、今、歩いている途中なんだ。
もう少し歩いてから決めることだってできるじゃないか。
今はまず、その重荷を少し降ろして見たらどうだ?」
「お母さんが君を会計士にしたいのは、もし君が仕事上何か困っても、きっとお母さんが君を助けてあげられると信じているからだと思う。」
Wはしばらく黙っていた。窓の外を見ているのか、どこも見ていないのか、わからなかった。
一晩かけて考えた結果が、これ。
悲しいくらい中身がスカスカだ。
それでも、その時の私には、これ以上の言葉は出てこなかった。
思いつきで、咄嗟にこれだけ言い置いた。
「君の価値は成績や進路で決まるんじゃないんだ。その情熱、意思が問題なんだ」
とても素面では言えないようなことを、この子のためにはスラスラ言えた。
決断
翌日、彼女は香港に一時帰国をした。
5日間で帰寮したことで、まずは退学回避の第一関門を突破した。
お土産があった。
月餅。
を、私に手渡しながら、
「私は考えました。このまま会計士になっても、音楽の道がなくなる訳ではない。今はお母さんを喜ばせてあげたい。そっちが私には大事です。決めました。」
Wが明るく振る舞うのは、生まれつきではなかったのかもしれない。
人の役に立つことを先に考えて、自分を後回しにすることを、どこかで身につけてしまった子なのかもしれない。
そして、彼女は再び鎧を纏ったのかもしれない。
そういうことに、周囲の大人はなかなか気づかない。
メッセージ
私が寮を退職する時、この子は長期休暇に入っていたので挨拶はできなかった。
が、Slackにメッセージが届いた。
カタカナで、「ガンバリマス!」とだけあった。
うん。今はそれでいいと思う。
連休初日に起きて、連休とともに落ち着いた件だった。
私は学校への報告はしなかった。
報告しても、動くべきものが動くとは思えなかった。そうなることを、私は経験で知っていた。
鎧の下の素顔は、学校の記録に残すべきではない。
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