観測ノート07|書いてあることと、伝わっていること
更新日:10月24日
駐車場
国際寮で働いていた頃、外国人教師の一人から、友人の車を寮の駐車場に停めたいという申し出があった。
駐車場は20台ほど停められる広さがあったが、普段使われているのは3〜5台程度だった。
空きは十分にある。時間も午前5時頃から昼まで。
友人たちとサイクリングに出かける間だけ置きたいという話で、事前の申し出でもあり、駐車すること自体に問題はなかった。
条件
私は一つだけ条件を伝えた。
駐車中、車の鍵を管理室に預けてほしい。
彼はこれに反発した。
友人の車なのだから、鍵まで預けるとは言えないという。
こちらにも理由があった。
その駐車場は寮に付随するもので、外部の車両や人が入れば管理室の管理対象になる。
ゴミ収集車などの大型車両が入ることもあり、さらに火災発生の場合は車を移動しなければならない。
何より、そこは子どもが生活している場所だった。
いくら教師の知り合いだからといって、それが無条件で受け入れられる場所ではない。
駐車場が空いているかどうかと、誰がどのような条件で使ってよいかは別の話である。
私はそう説明したが、折り合いはつかなかった。
話はそこで終わったと思っていた。
当日
当日の朝、友人たちの車が3台、駐車場に停まっていた。
事前の了解はない。
当然、鍵も預かっていない。
私はIB担当に状況を伝えた。
ところが、担当者は介入しなかった。
すでに起きてしまったことだし、今後同じことが起きなければいい。
そこは話し合うことで解消できる問題だ。
おそらく、そういう判断だったのだと思う。
ただ、私には別の問題に見えていた。
管理室には寮の安全を守る責任がある。
しかし、そのために必要な条件を教師が無視したとき、学校がその条件を支持するのかどうかが分からない。
これでは管理責任だけが残る。
私は校長に事情を伝えた。
最終的に学校は、外部車両が駐車場を使用する場合、事前に了解を得ることと、鍵を管理室に預けることを条件とした。
私が提示した条件が、そのまま学校の条件になった。
それで問題は解決した、と言えるのかもしれない。
しかし、実際にはそうならなかった。
「車の鍵」
彼はそれまで、寮に職員として無償で住んでいた。
それでも、この一件のあと、自分で家賃を払ってアパートを借り、出ていくことを選んだ。
理由を尋ねたことはない。
ただ、あの駐車場でのやり取りが、彼の中で何かを決めさせたのだろうとは思う。
退寮するまで、私たちは一度も会話をしなかった。
後になって考えると、あのとき私と彼は、同じ「車の鍵」を見ながら、違うものを見ていたのだと思う。
私にとって鍵を預かることは、管理のために必要な手段だった。
彼にとっては違ったのかもしれない。
他人に、まして友人の車の鍵を、第三者に預けるよう求められる。
彼が育ったのは南米の治安が不安定な地域だ。
彼の環境では、それはかなり受け入れ難いことだったのかもしれない。
だからといって、無断で3台の車を停めたことが正当化されるわけではない。
分からなければ確認する。
条件に納得できなければ、もう一度話す。
それでも合意できなければ、駐車場を使わない。
その選択肢はあったはずだ。
彼自身が引き受けるべき責任は、最後まで残る。
もっとも、彼だけの問題でもなかった。
IB担当は英語を話せなかった。
英語と日本語を話せるIB担当の外国人教師がいたので、必要があればその教師を介して意思疎通することもできた。
しかし、それは通訳という正式な役割ではない。
誰かが間に入れば、その人は言葉だけを運ぶとは限らない。
何を伝えるか、どう伝えるか、どこを強調するか、相手の言葉をどう解釈して戻すか——そこには必ず人の判断が入る。
しかも、間に入る教師自身も同じ組織の当事者である。
結果として、判断する立場にいる人と、実際に説明する人が別になる。
責任を持つ人が直接説明せず、語学のできる誰かがその間を埋める。
こうした状態では、語学力を持つ個人に、本人の役職以上の情報と調整の力が集まることがある。
私は、これを何度か見た。
もう一つ、今でも引っかかっていることがある。
私が校長に条件を伝えたのは、無断駐車が起きた後だった。
もっと早い段階で、「この駐車場は寮管理区域で、外部車両を受け入れる以上、管理室が緊急時に移動できる状態を確保する責任がある」と説明されていたらどうだったか。
逆に彼が、「自分の文化では、第三者に鍵を預けることに強い抵抗がある」と早い段階で言葉にできていたらどうだったか。
結果が変わったとは断言できない。
それでもやっただろうという気もする。
しかし、衝突する前に調整できる窓は、確かにあった。
皮肉なことに、衝突が起きるまで学校のルールではなかったものが、衝突後に初めて組織のルールになった。
彼は学校が提供する無償の寮を出て、アパートで暮らすことを選んだ。
そのタイミングでも別の出来事があった。
学校が用意した賃貸契約書は、日本人向けの契約書を英訳したものだった。
英語では読める。
しかし、日本で暮らしてきた人間なら特に説明されなくても補ってしまう前提まで、英語になったわけではない。
その一つが「原状回復」だった。
彼はシンクのカビなどの汚れを自分で落とそうとして錆落としを使い、かえって状態を悪くした。
元に戻そうとして、元に戻らなくした。
彼が確認すれば防げたことだが、契約書を英訳して渡した時点で、学校側の仕事は終わっていたのだろうか、とも思う。
外国人教師と働いていると、ときどき理解に苦しむ行動に出会う。
本人の判断がまずかったこともある。
身勝手だったこともある。
ただ、それだけで終わらせると見えなくなるものがある。
日本で長く暮らしている人間は、文書に書かれていないことを、かなりの量、勝手に補っている。
誰に聞けばいいか。
どこまでなら許されるか。
書いてある言葉が、実際にはどの程度のことを意味するのか。
それらの経験値。
外国から来た人には、その蓄積がない。
だから契約や規則など、明文化されたものが重要になる。
日本社会の暗黙の了解を共有していない以上、契約や明文化された権利は、自分を守り、行動を決めるための数少ない基準になる。
求められるもの
では、すべてを書けば解決するのか。
私はそうは思わない。
駐車場の規則を作ることはできる。
契約書を英訳することもできる。
問題は、その後である。
なぜその条件があるのか、何を守るためのものなのか、分からない場合は誰に確認するのか——そこまで共有されて、初めて文書は運用になる。
そして、伝える側だけに責任があるわけでもない。
組織には、異なる前提を持つ人にも使える形で説明する責任がある。
そこで働く人には、分からないことを確認し、決められた条件を守る責任がある。
この二つの責任が接する場所を、善意や語学のできる誰かにまかせてはいけない。
あの駐車場で起きていたのは、外国人教師と寮スタッフの文化摩擦だけではなかったのだと思う。
判断する人。
説明する人。
実際に運用する人。
その三者が、つながっていなかった。
規則があることと、規則が機能していることは同じではない。
書いてあることと、伝わっていることも同じではない。
その間には、設計しなければ残り続ける空白がある。
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