観測ノート04|20人の重さ
更新日:10月23日
子ども20人+文化差20人──高校留学生寮の知られていない現場報告
誤解
「20人なら楽でしょ?」
海外から新入生を迎える時、IB担当者からそう言われたことがある。
そのとき、私は返答しなかった。
会ってみなければ、わからない。
しかし、実際に寮にやって来た高校留学生たちは、私が想像していた「子ども」とは大きく異なっていた。
彼らが"できない子"なのではない。
その背後には、学業に集中させるための家庭の合理と生まれ育った国の文化がある。
朝、起きられない。
食事のタイミングが分からない。
洗濯物を放置する。
ゴミの分別ができない。
年齢は16〜18歳だが、生活能力はまだ発展途上に見えることもあった。
これが、私が国際寮で見てきた現実である。
密度
「高校生」と聞けば、多くの人はこう想像する。
もう大人に近い存在であり、
自分のことは自分ででき、
進路についても自ら考え始める時期だと。
しかし、寮に入ってくる留学生の多くは、生活という点では「大人の手を離れて間もない子ども」に近い。
朝、自分で起きる習慣がない。
3食を整えて食べた経験が乏しい。
洗濯や掃除は、常に家族が担ってきた。
時間管理も、親や塾があらかじめ組んだスケジュールに従ってきた。
母国では、「誰かが先回りしてくれる環境」が当たり前だった学生も少なくない。
それは単なる甘やかしではなく、子どもを勉強に集中させるための、家族なりの合理的な選択でもある。
海外、特にアジアの経済的に恵まれた家庭では、生活の細部は大人が引き受け、子どもは学業に専念する、という価値観は決して珍しくない。
その延長線上で日本に来ると、状況は一変する。
いきなり、すべてを自分で管理しなければならない生活が始まる。
異なる文化。
異なる気候と食事。
言語の壁。
家族と切り離された生活。
そして、難関大学を目指すという強いプレッシャー。
生活能力が未熟なまま、これらの要素が一度に重なってのしかかる。
それが、国際寮に入る高校留学生たちのスタート地点である。
重さ
定員だけを見れば、20〜30人は決して多い人数ではない。
しかし、現場での感覚はまったく異なる。
朝8時。
学生たちがカフェテリアに集まり始める。
私は入口に立ち、目視で点呼を取る。
その場でSlackを開き、欠席届を確認する。
届け出がない学生は、ほぼ間違いなく寝坊である。
一人ずつ居室を回り、ドアを叩く。
「起きているか?授業がある」
返事がない。もう一度叩く。
ようやく返ってくるのは、「今起きた」という声だ。
すでに朝食には間に合わない。
だが、ここで何もしなければ、この学生はぼんやりしたまま授業を受けることになるうえ、健康にも良くない。
私はすぐ厨房に連絡を入れる。
厨房担当者とは、もはや言葉はいらない。
チーズトーストとおにぎりをラップに包み、牛乳と一緒に通路で待っていてくれる。
「ここで食べて行け」
こうした対応を、毎朝繰り返す。
眠そうな顔でパンをかじる姿を見ていると、
この子たちはまだ、一人で異国に放り出されるには幼すぎるように思えた。
夜10時。
ラウンジを巡回する。
本当に勉強しているのか。
それとも、YouTubeを見ているのか。
あるいは、母国の友人とスマートフォンで長時間通話しているのか。
その合間に、洗濯機に一日放置された洗濯物を見つけ、
洗濯槽にティッシュが貼り付いていないか確認する。
キッチンに置きっぱなしの食器は、Slackで写真を添えて声をかける。
誰がどの器具を使ったかは、自然と頭に入っている。
ゴミ箱の脇に放置された電池や缶を回収する。
これを20人分行う。
しかも、文化も言語も生活習慣もすべて異なる。
唯一の救いは、IB生であるため、全員が英語を理解する点だ。
「20人なら楽だろう」
それはこの状況に当てはまらない。
留学生寮の20人とは、単なる人数ではない。
子ども20人。
文化差20人。
受験20人。
異国での暮らし20人。
それらすべてを同時に抱えた数なのである。
分断
ここで問題になるのは、学生個人ではなく、支える側の構造である。
日本の学校制度とIB(国際バカロレア)は、ここに深く関わっている。
日本の高校では、原則として
「学業は学校」「生活は家庭、あるいは寮」
という役割分担が前提となっている。
一方、IBの教育理念では、生徒の主体性と自律的な学びが重視される。
教師は答えを与える存在ではなく、学びを支えるファシリテーター(最終的な「ゴール・成果・合意」に到達させる役割)と位置づけられる。
過干渉を避け、本人の選択を尊重する文化がある。
これは本来、子どもを、人を育成するために極めて優れた理念だと思っている。
しかし、生活基盤が整っていない留学生にとっては、「誰も強く介入してこない」状況として現れることもある。
教師側にも、自主性と放任の区別を迷う人間がいる。
寮側も同様である。
全員に公平であろうとすればするほど、特定の学生に深く関わることは難しくなる。
結果として、
学校は「生活は寮が見ている」と考え、
寮は「学業や進路は学校が見るものだ」と考える。
その間に、すき間が生まれる。
この混乱の背景には、日本の教育制度そのものが持つ"学業と生活の分業構造"がある。
そこに落ちてしまう学生が、確かに存在する。
背景
寮に来る学生の多くは、経済的に恵まれた家庭で育っている。
留学費用を工面でき、小さい頃から塾や習い事に通い、困れば家族が支える環境にあった。
一見すると、「何でもやってもらえる子」に見えるかもしれない。
しかし、その背景には明確な価値観がある。
子どもには勉強に専念させたい。
生活の細かいことは大人が引き受ける。
その代わり、成果を出してほしい。
これは、親なりの愛情の形である。
だが、海外に出た瞬間、その副作用が一気に表面化する。
初めて一人で生活する。
家族は物理的に助けられない。
困っても、誰にどう助けを求めればいいか分からない。
本来であれば、中学生までに段階的に経験しておくはずの「生活を立て直す力」を、
留学先で一気に求められることになる。
しかもその時期は、IBの課題や内部評価、受験準備が最も重くなる時期と重なる。
ルート
生活が崩れ始めた学生は、ほぼ共通した道筋をたどる。
夜型の生活になる。
朝起きられず、遅刻や欠席、仮病が増える。
授業についていけず、課題が溜まる。
学校に行きづらくなり、寮にこもる。
寮での生活も乱れ、周囲との摩擦が増える。
これは、本人の意志の弱さではない。
文化差、家庭環境、制度の構造が重なった結果として、崩れやすいルートが最初から用意されている、そう思っている。
脆さ
学校がもっと関わるべきではないか。
寮がもっと支えるべきではないか。
そう思う人もいるだろう。
だが、現場で感じるのは、誰か一人を悪者にしても何も解決しないという事実である。
学校は、生徒を一人の大人として尊重している。
寮は、全員に公平であろうとしている。
家族は、子どもの将来のために最善を尽くし、子どもは期待に応えようとする。
それぞれが、それぞれの立場で正しいことをしている。
それにもかかわらず、そのすき間で、静かに追い詰められていく子どもたちがいる。
私が寮で感じていたのは、まさにこの構造の脆さであった。
私はその脆さを知りながらも、毎朝、同じように20の生活に関与した。
それが、構造の中でできる精一杯のことだったと思う。
限界
寮の仕事を通じて、私は何度も実感した。
生活の乱れは、そのまま学業不振につながる。
寝不足は集中力を奪う。
朝食を抜けば午前中の授業に影響が出る。
生活のストレスは、学ぶ力を確実に削っていく。
本来は、
生活を支える寮、
学業を支える学校、
その背景にいる家族、
この三者が連携し、一人の学生を支えるべきである。
制度や文化の壁は確かに存在する。
それでも、「生活」と「学業」を切り離さない視点を持つことが、留学生支援の最低条件であると私は考えている。
高校生は、見た目よりずっと幼い。
国際寮にいる彼らは、
子どもであり、異文化の中におり、受験を背負い、異国で生きている存在である。
生活を整えれば、学業は伸びると思う。
不安から解放されることで。
文化を翻訳すれば、理解は深まることがあると思う。
大人が本気で向き合えば、学生は変わることがあるかもしれない。
その現実から目をそらさないこと。
そういう現象を、私は現場で見てきた。
そして、寮と学校が連携すること。
そこから、本当の意味での支援が始まる。
しかし、それでも全員は救えないかもしれない。
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